人が居なくなるということ(長くて重いです) [家族]

11月27日・・・もうすぐ日付が変わる頃でした。

固定電話が鳴り、夫が出ました。
こんな時間に固定電話が鳴るなんて、ろくなことがありません。

夫が深刻な顔で応対しています。
それもけっこう長かったのです。

他の家族も、何か不吉なモノを感じ、夫の顔を凝視していました。


電話を切った夫が「マミが亡くなったんだって」
マミとは、私の5歳違いの妹です。


仕事を無断欠勤したのを心配して、職場の人がアパートに行き、
21時半ごろ、倒れている妹を発見してくれたそうです。

そして救急車を呼び、病院に搬送するときに付いて行ってくれました。

私は妹の職場の保証人になっていましたが、連絡先を探すのに手間取り、
連絡の電話を受けたのは23時半になったのです。


それからはたいへんでした。
搬送された総合病院に行き、待合室で妹の検査が全部終わるのを待ちながら、
亡くなったのは病院ですが、発見されたとき倒れていたので事件性が無いかどうか、
警察の人に色々聞かれたり、その後妹のアパートに行き現場検証。

妹の死後の始末が整って、浴衣を着せてもらってやっと対面し、
その後葬儀屋さんを手配し、遺体を安置する場所を確保してもらい。。。

何が何やら分からないまま、一睡もせずに翌日になりました。

新型コロナのことがあるので、
いわき市の弟に連絡するも、来なくていいよと言って怒られましたので、
うちの家族と、いわき市の弟夫妻と、夫の弟、近くに住んでいる親しい従妹と、
総勢8人で送り出しました。



実は、1ヶ月ほど妹は体調が悪く、仕事を休みがちでした。
目が回るというのです。

糖尿病を抱えて、お腹に針をさして血糖値を計りインシュリンを自分で打っていました。
血糖値のコントロールは出来ていたはずなので、
それでもこんなに体調が悪いなら、お医者さんに診てもらいなさいと、
再三伝えていました。

そんな状態だったので、毎日メールして安否確認し、
2日に一度は彼女が家に来て、ちょっとした会話をして食事を渡していました。

一日分ではなく、家庭料理ですがバランスを考えた食事と、
湯せんで食べられるレトルト食品や缶詰等、そして果物などを渡していました。

亡くなる2日前も会いました。
前日もメールでやり取りしていました。
(その前日のやり取りで、その日は担当医が居る日だというので、
診てもらいに行きなさいと言ったのですが、先の予約が狂うとか、
仕事の段取りがどうだとか、予約日以外に行くと長く待たされるのが苦痛だとか、
そんなことで行きませんでした。あの日に行っておけばと今でも胸が痛みます)

当日は金曜日で私は仕事に行っていました。
メールに返事が無かったので、
土曜日にでも覗いてやろうと思っていた矢先に警察からの電話があったのです。



大好きだった義母が亡くなった時は、もちろん悲しかったのですが、
病気で入院していたので、家族でそれなりの覚悟が出来ていたのだと思います。

でも、妹の場合は、私も亡くなるほどとは思っていなかったし、
おそらく本人もそうでしょう。
あまりにも突然の知らせで、私も混乱しました。

夫に、「マミが?」「マミが亡くなったの?」「本当にマミが死んだの?」
と何度も確認しても信じられませんでした。

それは、遺体と対面し、火葬し、あの世に送り出してからも実感が湧きません。

お別れの式をしたり、いろいろな手続きがあったり、彼女の部屋に行ったり、
実感が湧かざるを得ない現実があるのに、今でもまだ泣くことができません。

1人になっても考えることは、「あー〇〇のことも連絡しなきゃ」とか、
「元職場の〇〇さんに連絡することになってた」「区役所に証明書もらわなきゃ」とか、
そういう手続き的なことが多く、超がつくほど現実的なのにね。


で、パソコンを開く暇も気力もなく、今日まで来ました。
昨日親知らずさんとお目にかかって、いろいろと聞いてもらい、
ちょっと吹っ切れたかな。

もう少しして、すべて片付いたら泣けるかも知れませんね。


私の中でも整理がついていないので、記録としてもここに書き残そうと思います。
これからしばらく、こんな暗い投稿が続きそうです。
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